聖人を目指すという事は
- 2009/04/23 19:22
- カテゴリー:その他
感じの良い芸能人として知られているこの人でも裏表があり
聖人になる事などできなかった。
私がファンである松井秀喜選手も人格者として知られているが
彼にも物事の好き嫌いはあり寛大な人物とは言い難い。
草彅氏はともかく、松井選手に対してはある種聖人的な憧れを抱いてはいた。
しかし、氏に対する様々な記事を見る事によって、
自分にとって「聖人」論が崩れ、それについて悩む機会も多くなった。
自らが信じる偶像が崩れ去った時の人間ほど虚無な存在はないだろう。
結局、人間にとって聖人君主を目指す事は夢物語なのだろうか。
私は現実的に考える傾向にあるがこうした理想論も忘れたくは無い。
ただ、それを目指している時に自らの卑しい・及ばない心を振り返ると、
どうしようもなく憂鬱になってたまらない。
そう考えれば聖人を目指す事を諦めてしまった方が幸せなのかもしれないだろう。
人間は完璧な存在ではないのだから表裏があるのは間違っていない。
むしろ正しい道理である。
現代においてはその考えを基に社会の仕組みを整えているのだから。
かつての孔子が目指した社会体系が広まらなかった事からも。
しかし、諦めてしまっては何も進歩もない。
人間は常に自らの存在の危機を乗り越え進歩してきたのだから、
こうした矛盾を解決し新たなる価値を生み出すべきなのではないか。
宇宙全体から見たら遥かに短い期間で、数々の社会体系を生み出してきたように。
私は人から笑われても聖人君主になれる道を信じてみたい。
そして、私自身も自分自身の葛藤に耐え、それを目指す事を忘れないようにしたい。
新しい「人間」を見られる事を期待して。